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   <title>ユニークな傘たち</title>
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   <subtitle>雨の日がちょっと楽しくなるような、そんな傘を集めてみました。</subtitle>
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   <title>からだからの警告　4</title>
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   <published>2012-02-06T04:16:40Z</published>
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   <summary>1905年には出生証明書というものがなかったのですが、わたしは自分が朝に生まれた...</summary>
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      1905年には出生証明書というものがなかったのですが、わたしは自分が朝に生まれたと推察しています。


朝のうちはすこぶる元気だからです。


問診のつぎは触診ですが、女性の患者にはからだに手をふれる許可を得なければなりません。


・・・そうしないと、とくに若い女性の場合、トラブルのもとになるからです。


たまに触診を拒否する人がいますが、そんなときは「すまんが、さわらなければ治せないのでね」といいます。


それで、たいがいの人は理解してくれます。


以前にわたしの患者だった人からの紹介できている人が多いせいかもしれません。


触診の方法は過去数十年、基本的には変わっていません。


足の裏からあたまのてっぺんまで手でふれて、すべての関節の動きをしらべ、関節の表面の緊張をさぐっていきます。


      
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   <title>からだからの警告　3</title>
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   <published>2012-01-06T04:16:02Z</published>
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      わたしのオフィスにきた患者は、受付で助手の歓迎を受け、まず用紙に記入させられます。


住所、氏名、年齢、電話番号、生年月日のほかに、いちおう簡単な病歴も書いてもらいます。


わたしはあらかじめその記録に目をとおし、患者が治療室にはいってくる前に、その人の概略を把握しておきます。


・・・ところが、用紙に記入したとおりのことを重ねてしゃべる人はほとんどいません。


ですから、わたしもあらためて病歴や生活歴についてたずねます。


書かれた記録と語られた内容とのあいだの矛盾が、ときにはいいヒントになります。


わたしは生命エネルギーが午前中に体内にはいり、午後にでていくと確信しているので、患者に生まれた時刻をたずねることにしています。


・・・というのも、夜に生まれた人には治療に強い刺激が必要だからです。


      
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   <title>からだからの警告　2</title>
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   <published>2011-12-06T04:14:57Z</published>
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      その日を覚えておけば、とつぜん具合が悪くなったときに、カレンダーをたしかめるだけで、よけいな心配をしなくてすみます。


よけいな心配をしなければ、苦痛に耐えるのも楽になるというわけです。


さて、ここでオステオパシーがトラウマ問題にどう対処しているのかを見ていきましょう。


まず、わたし自身のやりかたを紹介しましょう。


わたしはそろそろ引退するつもりでしたが、患者からの強い要望を拒否することはできなかったのです。


助けを必要としている子どもたちに、どうしてもノーといえなかったのです。


正直なところ、おとなの患者もことわりきれないことが多いのです。


つい、わたしで役に立つなら、と思ってしまうのです。



      
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   <title>からだからの警告</title>
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   <published>2011-11-06T04:14:06Z</published>
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   <summary>からだがなんらかの警告を発してくれても、それが悪化の徴候であることはめったにあり...</summary>
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      からだがなんらかの警告を発してくれても、それが悪化の徴候であることはめったにありません。


・・・この症候群のあらわれかたはいろいろです。


多くの人はそれにまったく気がつきません。


症状がごく軽く、そのままやりすごす人も多いのです。


そして、最初の発病と同じ日付の日に似たような症状を軽度に自覚する人もいれば、わたしのようにかなり激しい症状を呈する人もいます。


なぜそれが起こるのかはわからないのですが、おそらくは、最初のときのトラウマが神経系か筋肉系に刷りこまれているのでしょう。


わたしの場合も、なんらかの原因で神経系か筋肉系のいずれかに刷りこまれていた記憶が呼びもどされたのだろうが、いずれにしてもそれはわたしのからだが必要としていたことでした。


・・・そうした記念日は発病の1年後にも、5年後、10年後にも起こりえます。


      
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   <title>進行するアメリカ病　4</title>
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   <published>2011-10-31T01:57:20Z</published>
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   <summary>これと同時に、アメリカが世界市場でかつて圧倒的な優位を占めた輸出製品にも、かげり...</summary>
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      これと同時に、アメリカが世界市場でかつて圧倒的な優位を占めた輸出製品にも、かげりが見えてきました。


その代表が航空機です。


一時はボーイングやダグラスなどの大型アメリカ機が、世界の空をわが物顔に飛び回ったが、いまではヨーロッパのエアバス・インダストリー社の旅客機がシェアに大きく割り込んできています。


同社は設立以来6年で、世界の民間航空機市場の21%と食いこみ、1960～80年の間にアメリカのシェアは70・9%から52・2%へと落ちています。


伝統的に輸出に強い産業でも、同様にその低落ぶりが目立っています。


たとえばプラスチック製品とか医薬品のようなR&amp;D志向型産業も同様です。


また世界最強といわれるコンピューターでも、日本の激しい追い上げを受けています。


このほか各種機械類でも、アメリカは激しく世界市場でその地歩を奪われつつあります。


・・・このような主要産業における国際競争力の地盤沈下は、アメリカの経済や社会や技術に大きな問題を惹き起こしています。


      
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   <title>進行するアメリカ病　3</title>
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   <published>2011-09-11T01:56:51Z</published>
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      とくに注目すべきことは、1970年代に入ってドルの価値が40%も切り下げられたにもかかわらず、輸出が低下したことです。


また目立ったことは、アメリカが世界に誇る自動車産業や先端技術分野で、外国製品とくに日本に攻めこまれたことです。


1960年には国内市場で95・9%を占めていた自動車は、1980年には72・9%に落ちこんでいます。


政府の産業保護政策で辛うじて大きな落ちこみを免れている鉄鋼や衣料品を除けば、主要製品は同様に、シェアを著しく外国に奪われています。


家電は94・4%から53・1%へ、靴は97・7%から66・6%へ、繊維機械は93・4%から53・1%へ、電卓は95%から57・1%へと・・・


いずれもその低下の幅は大きいものです。


このなかでも家電製品の落ちこみは目立っています。


アメリカ企業はすでに、ラジオでは自国市場における生産から撤退していますが、カラーテレビの場合も、その多くが現地生産の日本メーカーによるものであることは、周知のとおりです。


      
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   <title>進行するアメリカ病　2</title>
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   <published>2011-08-31T01:56:04Z</published>
   <updated>2011-09-08T23:15:07Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zero-tolerance-follies.com/">
      製造業の一般労働者に限定すると、落ちこみはもっと急激となります。


彼らの実質賃金は1979年に3・4%、80年には5・5%も、連続して落ちこみました。


これに対し1970年代ははげしくインフレが高進したから、食費や燃料・住居費の値上がりで、彼らの生活水準は、豊かさへの期待とは反対に、はげしく低下しました。


アメリカ主要産業で、ひとつは国内市場の、もうひとつは世界市場における、それぞれのシェアの、最近20年間の変化を示しているものをみるとわかります。


ヨーロッパや日本の経済がすっかり立ち直った1960年当時でさえ、アメリカは依然として先進国全体の製造業輸出の4分の1以上を占め、国内市場の98%を支配していました。


・・・しかし、それ以来20年間、アメリカ工業製品の競争力は市場シェアの低下とともに下降線をたどり、アメリカ国民の生活水準の、いっそうの相対的な落ちこみをもたらしたのです。


      
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   <title>進行するアメリカ病</title>
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   <published>2011-07-31T01:55:24Z</published>
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      1960年代終わりから70年代にかけて、アメリカ経済は急速に悪化の一途をたどり、根本的に改善されないままに1980年代にまで及んでいます。


そこでこの、&quot;アメリカ病&quot;とまでいわれるようになったアメリカ経済の病状に触れておくことにしましょう。


しかし、その病根は根深く、おそらく後世の史家のみがよく判定し得るところでしょう。


いまはただ学者や評論家などがおびただしく書いたカルテのなかでこれをまさぐるというのが偽らざるところです。


まず第一にあげねばならない症状は、今日の豊かさから明日のそれへと期待感を戦後抱きつづけたアメリカ国民の楽観主義が裏切られはじめたということです。


ことにオイル・ショックの前と後とでは、国民の生活水準はきわ立って大きく変化しています。


1966～73年の間、国民1人あたりの実質可処分所得は21・5%増加したのに対し、1980年までの次の7年間にはわずか1・5%の上昇にとどまっています。


      
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   <title>日本の動き　3</title>
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   <published>2011-06-24T04:02:52Z</published>
   <updated>2011-06-30T23:16:05Z</updated>
   
   <summary>20歳前後で血気盛んな頃ですから、けんかもよくしたそうですが、今考えると本当によ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zero-tolerance-follies.com/">
      <![CDATA[20歳前後で血気盛んな頃ですから、けんかもよくしたそうですが、今考えると本当によい時期だったそうです。


3年足らずでしたが、祖父の人生には今もなお大きな比重を占めています。


密度の高い青年期の一コマだったのですね。


今では、当時の満州進出はみんな「侵略」のようにいわれますが、こういう交わりがあったということも、記憶されておいてほしいと思います。


こうした次第で、祖父には中国に友人がいっぱいいます。


ほとんどが立派になって、党や官庁のお偉方や大学の先生が多いそうです。


中国では、祖父らの世代で一番のインテリだから当然でしょう。


この大学の教育も特殊でした。


敷地が65万坪もあったそうです。


山地の65万坪ではありません。


平地の原っぱの65万坪です。


そして、いわば全人教育だったのです。


例えば、大学ですから、教室に座って聴く講義はありますが、それが完全にできても3分の1の成績にしかなりません。


次の3分の1は体を動かすこと、当時は軍事教練があり、また武道があったそうです。


当時<a href="http://www.spoken.co.jp/" target="_blank">ノルディックポール</a>などのエクササイズはなく日本の武道だけでしたが、全員がそれをやったそうです。


剣道、柔道、合気道のどれかをやるのです。


馬もあり、農業もありました。


訓練のために農業をやるのです。


飛行機もあったようですが、祖父たちは飛行機まで進めず、グライダーで終わったそうです。


そういう体を動かす訓練が3分の1でした。


最後の3分の1は、寮生活だったそうです。

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   <title>日本の動き　2</title>
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   <published>2011-05-04T04:01:23Z</published>
   <updated>2011-05-04T23:15:29Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zero-tolerance-follies.com/">
      別の一人は中国人で、最近まで大連の水産大学の学長をしていたそうです。


もう一人はモンゴル人で、今は内蒙古自治区で学校の先生をしているようですが、連絡がとれず文通をしていません。


さらにもう一人はロシア人でした。


祖父はこのロシア人学生と一番親しかったそうですが、今、消息はわからないそうです。


死ぬまでにはなんとか一度会いたいと思っています。


彼がどこにいても私は出かけて行くつもりですが、生死のほどもわかりません。


当時のロシア人の友人で何人かは消息がわかったし、戦後会った人もいるのですが、彼だけはわからないのだそうです。


・・・もともと彼はハルピンにいましたが、ハルピンにいたロシア人は、ほとんどがオーストラリアかアメリカに渡ったそうで、少数の者がロシアに帰ったようです。


いろいろと随分探してみましたが、まったく消息がつかめないのです。


どこかで生きていてくれればよいが、といつも言っています。


とにかく、死ぬまでにはどうしても会いたい級友なのですね。


・・・この5人、みんな民族が違いますが、同じ生活をやっていたのです。


      
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   <title>日本の動き</title>
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   <published>2011-04-24T03:59:21Z</published>
   <updated>2011-04-24T23:15:26Z</updated>
   
   <summary>「アジアの解放」ということは、ずっといわれてきていました。 アジアは、ほとんどが...</summary>
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      <![CDATA[「アジアの解放」ということは、ずっといわれてきていました。


アジアは、ほとんどが欧米の植民地あるいは半植民地であったので、それを解放するのだと唱えられてきました。


太平洋戦争も、そういうことで正当化されていたわけです。


今日ではすべてが暴かれていますが、当時、真実そのように信じていた若者がたくさんいたこともまた事実です。


余談になりますが、私の祖父もアジアの解放の戦いを信じていた一人でした。


<a href="http://soka-butudan.jp/" target="_blank">創価学会 仏壇</a>に向かって手をあわせる祖父の後姿をよく見かけたものです。


太平洋戦争が始まってほどなくの頃、祖父は旧満州(現在の中国東北部)に渡って建国大学という大学に入りました。


最近もときどき「建国大学」という名が新聞に載るが、これは韓国の大学であって、祖父たちの学んだ建国大学とはまったく関係はありません。


満州のその大学は、旧満州国の首都、新京(現在の長春)にありました。


非常に特殊な大学で、一学年180人ぐらいのうち、日本人学生はその半分足らずだったそうです。


あとの半分は大部分が中国人。


それから少数の朝鮮人とモンゴル人とロシア人がいたそうです。


5つの民族の学生がいたわけです。


しかも全寮制で、予科3年、本科3年の6年間、みんな一緒に寮生活。


本科に入ってからの祖父の部屋は5人部屋でしたが、そのなかで純粋の日本人は祖父だけだったそうです。


一人は神戸出身の朝鮮人で、今は釜山にいるそうです。

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   <title>近代は「西洋の時代」　3</title>
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   <published>2011-03-04T04:58:27Z</published>
   <updated>2011-03-09T00:15:27Z</updated>
   
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      日露戦争の終結には、むしろロシア側にやむをえない事情がありました。


内乱が起こり始めており、当時日本のスパイもモスクワに入って、ひそかに革命運動を支援し、後方撹乱をしたわけです。


他方、あの頃、日本は非常に多くアメリカの援助を受けていました。


日本の軍隊のなかにはアメリカの将校もいました。


・・・のちに日本占領軍の最高司令官になったマッカーサーもその一人で、当時の日本の軍隊での見聞が、彼の日本占領政策を方向づけたともいわれています。


こうした彼我の状況のなかで、奉天までが精いっぱいの日本は講和の仲介をアメリカに依頼し、アメリカが仲介役となってポーツマスで講和条約が結ばれたのです。


そういう形でやっと日露戦争が終わりました。


・・・しかし、それにしても、有色人種が白人と戦って勝利をおさめたということは、特記すべき歴史的事件でした。


日露戦争は20世紀の初め、1905年に終わりましたが、それまでどんどん世界に伸びていた白人勢力が、ここで一頓挫を来たすことになりました。


しかし、その後の日本の歩み・・・


ことに第一次大戦以降のわけても大陸に対する日本の行動は、大変に残念な動きをしたのです。


      
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   <title>近代は「西洋の時代」　2</title>
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   <published>2011-02-24T04:57:35Z</published>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://zero-tolerance-follies.com/">
      例えば、日本でも明治維新以来、近代化は西洋化でした。


文明開化だといって鹿鳴館で洋装をしてダンスを踊り、留学するといえばみなヨーロッパへ行きました。


戦後はアメリカに多く行くようになりましたが、ともあれ、そのようにして明治維新以後、西洋の文物を取り入れて日本は近代化したのです。


・・・しかし、こういう時代が今、大きくゆらいでいます。


これは世界史的に見てきわめて重要なことです。


世界史に日本の果たした役割も非常に大きいものでした。


ヨーロッパがどんどん世界に支配力を広げていたその勢いに、最初のつまずきを与えたものは日露戦争(1904～5年)でした。


もっとも、日露戦争は日本が勝ったといっても、実力では到底及ばない戦いでした。


奉天(今の藩陽)まで攻めていったといっても旧満州の南半分に過ぎず、シベリアまではだいぶん距離があり、モスクワまでとなると気が遠くなるほどの距離があります。


・・・そこまで行く力など、当時の日本には思いも及ばないことでした。


      
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   <title>近代は「西洋の時代」</title>
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      ポルトガルの船が日本に入ってくるようになったあの頃から、西洋が支配力をもってきました。


そして、この方向を不動のものにするのは産業革命です。


産業革命を真っ先にやったイギリスは、一国で世界の4分の1を領有するまでになりました。


私が小学校の頃、世界地図が教壇に貼られており、いやでも目についたのを思い出します。


日本は真っ赤、イギリスは桃色に塗ってあり、それが世界のほとんど4分の1から3分の1の面積を占めていました。


南アフリカ、北アフリカ(エジプト)、中近東、インド、マレー半島、オーストラリア、カナダが桃色でした。


19世紀はユニオンジャックが世界の津々浦々にひるがえった時代でした。


それが第一次、第二次大戦を通して今日ではすっかり様変わりをしたのです。


しかし、イギリスに代わって今度はアメリカが登場し、戦後の世界を支配してきました。


・・・そういうわけで、ずっと今日まで欧米が支配してきたわけで、これが近代の特徴だったといえるでしょう。


ですから、近代化ということは西洋化とほとんど同じでした。


      
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   <title>自由主義と社会主義　4</title>
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      西側の混合体制とはもちろん性格が違うが、共産圏でも今日では、たんなる中央計画、中央管理ではなく、市場経済や自由競争の要素がますます多く組み入れられているわけです。


西側自由諸国とはいわば逆の方向で混合体制化が進んでいるといっていいでしょう。


このように見てくると、西でも東でも、近代に力をもってきた一元的な社会体制は、今日では大きく崩れてきているということが明らかになります。


個人と全体、自由と統制、市場と計画の両極端から、社会体制はいずれも混合化の方向をとっていることが知られます。


これらは当然、生協のあり方と関係があります。


生協は本来、個人主義とも全体主義とも相容れない性格をもっているからです。


近代を特徴づけてきた第三の点として、国際関係に注目してみましょう。


最も特徴的なこととして、近代という時代は西洋が世界を支配してきた時代、西洋の世界支配の時代だったといっていいでしょう。


あの新大陸発見の時代(15～6世紀)から西洋が優勢になってきました。


日本でいうと戦国時代です。



      
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